私の感想 ①「クリスマス・キャロル」

ここ数ヶ月忙しくて更新できませんでした。
とりあえず、読んだ本の感想をUPしていきます。

時期的に完全にズレてますが・・・
ディケンズ『クリスマス・キャロル』(光文社古典新訳文庫、2006)

十九世紀、工業化が進んで都市人口が膨れ上がったイギリスでは、労働者が年末にゆっくり休暇を楽しむ条件は与えられず、また、各地から流入した新興市民がそれぞれに郷土の風習を持ち寄ったため、かつての大らかな祝祭は影をひそめた。
特に、地方の大地主など、支配階級がこの時期ばかりは上下の隔てを取りはらって、小作人や使用人らとともにクリスマスの喜びを分かち合う習慣がすたれ、そんな時代の流れを嘆く声が次第に高まっていた。
ディケンズがそれを踏まえて作中に古来の習慣を再現したのがフェジウィグの舞踏会である。                                                                                  訳者あとがき p189

 

ディケンズの活躍した19世紀のロンドンは、まさに都市の人口が急増した時期でもありました。
19世紀はじめに約86万人だったのが、その後の100年で約420万人にも膨れ上がっています。
田舎の少数で限られた人間関係とは違って、
いろんな所から都市へとやってくる人の大量流入は、言葉、習慣、考えなどがまったく異なる見知らぬ人々がゴミゴミと暮らす状況をもたらしました。

 
そのことを見誤ると・・・
悪いおじいさんが改心する感動話としか映らないでしょう。
感動話よりも、
ディケンズは、都市化していく社会に対しての批判や、伝統が廃れていくことへの危惧を言いたかったのかもしれないと、今回改めて読んで感じました。

作品中に出てくる「フェジウィグの舞踏会」では、クリスマスくらい金持ちも貧乏人も身分の階級無く、自由にダンスをし、美味しいものを食べて楽しむ様子が描かれています。
クリスマス商戦でにぎわうアメリカや、浮かれさわぎの日本の様子を、ディケンズが見たらはたしてどう思うでしょうかね?

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫) Book クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

著者:ディケンズ
販売元:光文社
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読レポ 5

前田健/「それでも花は咲いていく」
あややのモノマネでおなじみのまえけんの処女短編小説。

恋のブチアゲ♂天国

小さい子を愛してしまう中年の男、マンガの中の人物しか愛せない女子、セックスにしか生きる喜びを見出せない女性、振り向いてもらえないと分かっていながら好きな男性のためにボクシングをがんばるゲイ・・・

マイノリティとまで言うと、肌の色の違いとか民族とか何か世界規模の問題のように感じられるけど、
この小説は、世間からズレてしまった人が主人公として登場。
彼、彼女らが、世間からのズレにどうしたらいいか分からないと苦しみながらもなんとか生きていく姿を、毎回登場する小さな花がどんなことがあっても咲いていく状況にたとえています。

結末は様々ですが、
アパートの隣の住民かもしれないし、街を歩いてるあの人かもしれない、あくまで日本のどこにでもいそうな人として描かれています。
ただ、男が主人公になっている話は、悲劇的な結末を迎えるのに対し、女性の場合、何かしらハッピーエンドで終わります。
ゲイであることを告白したまえけんにとって、男であることにいろいろと苦労があったからなのか、男のドロドロした欲望などがうまく書かれていると思う。

まえけんと思ってどこか侮っていました、ハイ、すみません。
次回作もあるのかな?

それでも花は咲いていく Book それでも花は咲いていく

著者:前田 健
販売元:幻冬舎
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再びの

先日、またまた職務質問を受けた。

なんか最近やたらと多い気がする。

(昨日は、若い女性も職務質問を受けていたのを目撃。)

「最近、自転車の盗難が多いんで・・・」

という決まり文句に対しては、適当にやり過ごしていましたが、今回はやたらとしつこい。

と思ったら、

「最近、ナイフを使った事件が多いので、カバンの中を見せてもらえません?」

ときました。

なるほど、こいつはカバンの中を見たかったからあんなにしつこかったのか?

私のカバンには、ナイフ、ましてや大麻なんて入っていませんよ。

もしかして、新入社員が「一日100枚名刺を集めてこい!!」なんて無謀を言われるように、「一日100人職務質問してこい!!」なんてノルマを課されているのでしょうかね??

だいたい職務質問は、都会独特の現象だと思います。(実際、兄がこの前東京に来たときに初めて職務質問されて大変驚いていました。)

都会は不特定多数の人が行きかうといっても、いまや田舎でも凶悪事件が起きる昨今。都会だけ職務質問が異常に多いってのも、なんかね~。

 

と、勘ぐりたくなるのは、ちょうど森達也の『東京スタンピード』なる本をちょうど読んだから。

内容は・・・

毎日テレビから伝えられる若者の凶悪事件、家族殺し、スポーツイベントに熱狂する人々・・・閉塞感が漂う現代社会の中で、次第に人々が自衛するようになる様子を描いています。

最初は街のガーディアンとして機能していたものが、次第に統制を失い、果ては暴徒化するまでに。

ル・ボンの「群衆心理」を参考にしているようで、小説の中でも、日本人はル・ボンが言うような大勢の中にいると人は理性を失い暴走してしまう群集になるだろう??近未来を書いています。

 

暴徒化するっていっても日本の場合は、ネット炎上など顔が直接見えない場所での群集化の方が多いような気がするので、森の小説のようになるかはちょっと疑問。

ただ、森が指摘しているように、街中に「特別警戒中」、「監視中」などの張り紙が貼られ、いつの間にか他人を警戒し、監視国家になっていっている状況は気持ち悪い。

職務質問も、そんな中の一環なのかも。

 

気持ち悪いといっても、私個人が具体的にどうすればいいのかまったくわからないし、職務質問を拒否したらますます怪しまれるし・・・

はてさてどうしたものか。

東京スタンピード Book 東京スタンピード

著者:森 達也
販売元:毎日新聞社
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群衆心理 (講談社学術文庫) Book 群衆心理 (講談社学術文庫)

著者:ギュスターヴ ル・ボン
販売元:講談社
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読書レポートその5 「一日3時間しか働かない国」

「このキルギシアという国では、どんな職場であっても、公共であれ民間であれ、一日に三時間以上働く人はいない。(中略)残りの二一時間は、眠ったり食事を楽しんだり、創作活動をしたり、愛し合ったり、人生を楽しんだり、自分だけの時間を過ごしたり、子どもや仲間たちと交流したりして過ごすんだ。」

誰もが幸せになる 1日3時間しか働かない国 Book 誰もが幸せになる 1日3時間しか働かない国

著者:シルヴァーノ・アゴスティ
販売元:マガジンハウス
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この話は、アジアにあるキルギシアという国に偶然にやってきたシルヴァーノから、友人に宛てた手紙だけでつづられている。
通常なら一日8時間も働かなければいけないところ、この国は3時間だけで大丈夫なんだとか。
人々の暮らし、「生きること」「働くこと」の価値観、規範などを根底から問い直す革命が行われたこの国では、一人一人の主体性、人間らしさを尊重し、ゆとりのある時間、人生が保障されている。

キルギシアって国はどこにあるかって?
実際には、そんな国はありませんよ。あくまで筆者が想像したユートピアです。
ただ、テクノロジーが向上しているのに、いまだに一日8時間も労働しなければいけない現代社会の問題を考え直すきっかけとなると思います。
働くこととは?生きることとは?
もう一度自分の中で見直した方がいいかもしれません。

ただ現実にも、国民のほとんどが仕事に就いていない(もしくは無職)国はあります。
例えば、南国の島国の「ナウル共和国」。
20年までは、リン鉱石の採掘で大変裕福だった国。いまでは、リンも取れず見る影も無いんだとか。
ただ、昔の裕福な生活が忘れられず、人々は一日何もしなくなり90%の人が失業状態。
詳しくは、http://www.ntv.co.jp/q/oa/20070624/02.html
また、マーシャル共和国なんてのもあります。http://www.ntv.co.jp/q/oa/20081130/02.html

ナウルにしても、下手に近代化した結果、こんなことになったような気もします。
生活が自国内だけで完結していた昔の方が、ある意味豊かな生活をしていたのかもしれません。 

↓併せて読みたいもの(未読)

怠ける権利 (平凡社ライブラリー) Book 怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

著者:ポール ラファルグ
販売元:平凡社
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こんな記事み~つけた!! その1

朝日新聞、08年3月11日朝刊。

木村伊兵衛写真賞 生と死を見つめる2人に

第33回を迎えた木村伊兵衛写真賞は、2年連続で2人受賞となった。世界を明るくとらえた昨年の受賞作から一転、岡田敦さん(28)と志賀理江子さん(27)の作品は、痛々しいほどに「生と死」を見つめる目を感じさせる。

■岡田さん 若者たちをリアルに

 受賞作『I am』では、若い女性の顔、裸体、そして自傷行為の跡が刻まれた腕が、生々しく見るものに迫る。

 被写体はウェブでの募集に応じた10~20代の約50人。衝撃的な写真のあまり、全員が自傷行為の経験者にも見えるが、そうではない。岡田さんは「今を生きる若い人たちのありのままの姿を撮った。決して特別なものではない」と話す。

 自分たち若い世代が現代社会に感じているリアリティーを一貫して撮り続けてきた。第29回木村伊兵衛写真賞の最終選考に残った『Cord』は、ウェブ上で交わされた自傷行為者たちの言葉を引用し、写真と組み合わせて表現。「私を撮ってほしい」という反響がメールで多数寄せられ、受賞作を生む契機となった。

 写真集の表紙には特殊な紙が使われ、手にした人の顔を鏡のように映す。「あなた自身もこの写真集に登場するひとりなのだというメッセージなんです」  (本文の一部抜粋)

 

この岡田敦の写真を見たことは無いので、この写真、記事に関してなんとも言えませんが・・・

どうして自傷行為の跡の生々しい跡が、若者のリアリティを表すのでしょうか?

そのこととは少し違うのですが、常々疑問に思っていたことがあります。

現代の若者(10代後半あたり)というと、こういったイメージだけでなく、売春、妊娠、薬物・・・が付きまとうような気がしてなりません。

少なくとも私はこういった場面に出くわしたことが一度も無いし、話に聞いたこともありません。

でも、そういったモノが出てくると何かリアリティーがあるように語られるのはなぜなのでしょうかね? 

 

また、こんな記事もありました。

『書評 なぜケータイ小説は売れるのか』(東京新聞、08年3月30日朝刊)

ケータイ小説の多くは「七つの大罪」を描いている、と本田は指摘する。売春、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛。ケータイ小説は東京よりも地方で売れているが、その理由は、この七つの大罪が地方都市の女子中高生にとってリアルなものとして映るからだ。

 もちろん地方の少女たちが皆、売春したり妊娠したり自殺しようとするわけではない。だが、東京発の東京目線でつくられるテレビドラマ等のよそよそしさに比べれば…。そういえば、ケータイ小説の多くは、作者の経験した実話として語られる。「友達のいとこの先輩が実際に遭った話」などとして語られる都市伝説のように。本田は「現代が生み出した宗教的な民間説話」と言う。         (本文の一部抜粋)

なぜケータイ小説は売れるのか (ソフトバンク新書 63) Book なぜケータイ小説は売れるのか (ソフトバンク新書 63)

著者:本田 透
販売元:ソフトバンククリエイティブ
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このケータイ小説のテーマとなる「売春、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛」。

これが、地方都市の女子中高生にとって、一種の都市伝説のようなものとしてリアリティを感じるなものとして映っているようです。

ただ、そう考えると、私の疑問も少しは解決できるかもしれません。

売春、薬物、不治の病・・・

なんてことは、身近にゴロゴロ存在していない日常ですが、

「友達の友達が・・・」とか「先輩が・・・」などのセリフとともに妙な現実味を持ってしまう。

そういったイメージが一人歩きし、「若者のリアリティ」を作り出す部品になっているんでしょうね。

 

でもやっぱり、私にとっては現実感の無い話ばかりです。

自傷行為の写真は、現実に起こっていることですが、若者のすべてがそれをしているわけではありません。

ケータイ小説もしかり。

(女性だとまた違った見方をするかもしれませんけど)

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読書レポート?その4

今回はレポートというより、ただの感想です。

メタボラ Book メタボラ

著者:桐野 夏生
販売元:朝日新聞社
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600ページにわたる厚さや内容の重さながら、一気に読める面白さもあった。
(詳しいことを書くのは読む楽しみを奪いますので、内容には触れませんが・・・)

沖縄を舞台に、記憶喪失のギンジと、家出してきた宮古島出身のアキンツ(ジェイク)の2人の視点から、沖縄基地、ニート、ワーキングプア、DV、家族崩壊、バックパッカー、ホスト、ゲイ・・・と次々に現代社会の特徴的な事象や問題(特に若者に関する)が描き出されています。
そこは、「希望」や「夢」といった言葉がまったく存在しない世界です。
主人公と同年齢の私は、明日はわが身かもしれないと思うと、今の現実のあまりのつらさを感じ、気持ちが悪くもなりました。 

野坂昭如が毎日新聞で連載している「七転び八起き」で、戦後の混乱期を生きてきた野坂の体験から見た、今のネットカフェ難民についてこんなことを書いていました。

「戦後ぼくは、食うものは勿論着るものも寝る場所もなく、ようやく手に入れたテカテカの学生服を看板に、ウロウロしていた。朝起きると今日食えるもの、今夜どこで寝るかをひたすら考えていた。だがまわりもすべて同じようなもの。日本全体が貧しかったのだ。今、昔と違うのは、ネットカフェ難民から上へはなかなか這い上がれる世の中ではないということ。」                                     (08年3月10日朝刊) 

最後の「上へはなかなか這い上がれる世の中ではない」という指摘は、メタボラで描かれていたものと同じです。

現代社会は底なし沼みたいなものでしょうか?
一度はまったら、いくらもがいたところで、後はゆっくりと沈んでいくだけです。 
ただ、タイトルの「メタボラ」(ギリシャ語、metabole、変化)とあるように、記憶喪失の主人公が「磯村ギンジ」と偶然付けられた新しい名前を頼りに、なんとか必死に生きていこうとする姿を描くことで、この現代社会は、新陳代謝(metabolism)していけるのだ、しなければいけない、という気持ちを桐野はこの本にこめたのかもしれません。

ま、一度読んでみてはいかがでしょうか?

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読書レポート?その5 ~「みんなぼっち」以降の若者たち~ その2

前回の「読書レポート?その5 ~「みんなぼっち」以降の若者たち~」では、「他者とのコミュニケーションを高度に使い分る能力があり、要領よくなければ生きていけない」と書きました。

「みんなぼっち」でもありましたが、これは、あくまで親しい人(友人など)との関係の中での話が基本になっています。

現在では、携帯やネットなど、「集まり」が容易に作れる環境が十分に整っていますが、

一方で、同じような志向、趣味の持った人だけが簡単に集まることができるのも事実。

同じ考えを共有した集団は一見すると、人間関係が良好に進むと思われますが、

少しでもはみ出すもの、異質なものを徹底的に排除してしまう側面もあります。

(最近は、排除する傾向がますます強まっているように感じられます。)

 

また、(『みんなぼっちの世界』の)10年前の調査に比べ、人間関係が多チャンネル化(学校の友人だけでなく、ブログ、ネットの掲示板内での付き合いなど)しています。

1人の若者が様々な集団に属している場合もあり、

その結果、場面、集団ごとに、自分自身を切り替え、空気を常に読んで行動しなければいけなくなりました。

 

そういった2つの意味で、現在の若者は集団内でのコミュニケーションを高度に使い分けなければいけなくなったのでしょう。 

『若者たちのコミュニケーション・サバイバル―親密さのゆくえ』では、そういった状況に置かれた若者の意識、行動が中心に明らかにされていました。

では、それ以外の他者に対しては、どうなのでしょうか?

時間が無いので、それは、「その3」で書きたいかと。

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読書レポート?その5 ~「みんなぼっち」以降の若者たち~

岩田考 他編『若者たちのコミュニケーション・サバイバル―親密さのゆくえ』 (恒星社厚生閣、2006)

前回の記事『読書レポート?その4』の続きです。

前回の『みんなぼっちの世界』(1999)での調査のを受けた続編です。

今回は、本の要約ではなく、「みんなぼっち」以降の若者の変化している、していない点に絞って見ていきたいと思います。

 

結論から言うと、今の若者も「みんなぼっち」であることには変わりないようです。

ちなみに、「みんなぼっち」とは、濃密なコミュニケーションなどという「うざったい」ものを避けつつ、集団としてまとまろうとする関係で、親しい関係の中でまとまりつつも、その中の成員それぞれは「ひとり」という特徴があります。

携帯で常に友人と繋がっているようで、その関係は実に希薄なものだった、なんて話もありますし。

 

ただ、本のタイトルに「コミュニケーション・サバイバル」とあるように、状況ごとに他人との関係を上手く変えながら生きなければいけない要素が強くなっているよう。

携帯、インターネット(ブログ、掲示板・・・)など、言葉1つ間違えたら袋叩きにあってしまう今日。

今の若者は、他者とのコミュニケーションを高度に使い分る能力があり、要領よくなければ生きていけません。

コミュニケーションがマニュアル化(「空気を読む」なんてものが良い例)しているのかもしれません。

それが出来なければ、いじめにあったり、ひきこもったり、ニートなどになってしまいます。

 

また、他者との深い関係を求める面が強くなってきている傾向もあるようです。(↓は、新入社員~30代くらいの会社員の例)

「IT化…企業、コミュニケーション能力低下に危機感 独身寮 “孤独社会”に復活」  2006913日(水) 東京朝刊」

「『孤独すぎる職場』原因と対策 ~家族的に日本企業への"回帰"が社員の孤独を救う?~」(『SPA』07年7月10日号)

会社の中での人間関係を円滑に進めることで、仕事に役立てようという狙いが見え隠れしているし、また、会社にそういった交流をお膳立してもらいたい傾向が強く、これが本当に深い関係であるかは疑問。

 

また、前回の『みんなぼっちの世界』では、状況によって他者との関係をコロコロ変えることに対して、自分とはいったい何者なのだろうか?つまり、「自分探し」という言葉が重要なキーワードとなっていましたが、今回の本にはあまり見当たりません。

他人とのコミュニケーションがあまりに高度すぎて、そういったことを考えるまでの余裕が無いのか、

またあえて考えない方が、余計な悩みが無く人生を楽しく生きられると割り切っているのか?

「みんなぼっち」の場合、個人主義とも集団主義とも取れない曖昧なものでしたが、現在は、変な集団主義(袋叩きにあうなど)に傾いているよう。

とにかく自分というものを強く押し通すよりも、人間関係を大事にしなければ今の世は生きていけません。

コミュニケーションを円滑にするための指南本が書店にうずたかく積まれている状況は、そういったことを如実に表しているのかもしれません。

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読書レポート?その4

富田英典、藤村正之編『みんなぼっちの世界―若者たちの東京・神戸90s・展開編』(恒星社厚生閣、1999

<要約>

学生コンパで場を盛り上げるためだけにイッキ飲みをしたり、カラオケボックスで誰かが歌っているのにも関わらず相手を見ず他の事をしているなど、現在の若者を取り巻く状況を粒さに見ると、それまでの考えでは捉え切れない状況がある。本書は、95年に東京・神戸で行ったアンケート調査(1629歳まで)を元に、90年代の若者(団塊ジュニア、19721981生まれ)の行動や意識の一端を明らかにしている。

若者各々が勝手に行動するが、みんなでいることは崩さなく、常に「みんな」という演出を欲しがる。個人主義とも集団主義とも言えない曖昧な雰囲気に満ちた世界があった。本書では、G.ジンメルの「ふたりの孤独」(恋人、夫婦が陥る孤独)という概念を用いて、若者が濃密なコミュニケーションなどという「うざったい」ものを避けつつ、一方で集団としてまとまろうとする関係を「みんなぼっち」と名づけた。「みんなぼっち」の世界では、外部との境界線に意味があり、そこでの範域にのみコミュニケーション回路を限定し、内部空間(友人などの集団)は、親しさと希薄さがともに漂う非常に狭いものであった。これは、宮台真司が言う「島宇宙」(極少人数で同質な関係による集団)に近い。

そして、「みんなぼっち」の世界では「他者」という存在が無いというのも特徴的である。核家族化している現代、若い世代の人間関係が希薄になっているのが現状である。家族(親、兄弟)、友人以外の関係(近隣の人、叔父、叔母)、つまり地域共同体というものが崩壊し、一般的な規範や道徳を学ぶための重要なモデルである「他者」の存在が弱体化している。そういった中で、距離感を保つ人間関係によって、他者理解に伴う問題を回避している。この狭い人間関係しか持たない特徴は、G.H.ミードの、具体的な周囲の他者(親、兄弟、友人・・・)を真似することで自我を形成する「プレイ段階」に当てはまり、見知らぬ他者と共有されたルールの元に自我形成する「ゲーム段階」(「プレイ段階」の後に発生する段階)には至っていない。

結果として、「みんなぼっち」の世界にある自我(自己意識)は確固としたものではなく、「自分探し」をしたり、一方で一貫した自己などなくその場で振舞うすべての姿が「自分」であると考えたりする若者が出てきている。そんな危うい自己のイメージを防御、傷つかないための戦略が、「みんなぼっち」である。そんな世界の中で、現代の若者はお互いにコミュニケーション回路を自由に開け閉めし、他者と一定の距離を取ろうとしている。

<参考文献>

ジンメル、清水幾太郎訳『日々の断想・愛の断想』(岩波文庫、1979

宮田真司『制服少女たちの選択』(講談社、1994

ミード『 精神・自我・社会』(人間の科学社 , 1995

ここからは、この本を読んでの感想、勝手な私の見解です。

この調査が行われてから、2年後の97年。 「酒鬼薔薇事件」が起き、その時から急激に「少年犯罪」というものが新聞、テレビでクローズアップされ、「キレる10代」なんて形容詞が若者(中・高校生あたり)に付与され始めた記憶があります。

酒鬼薔薇と同年代の私は当時中学生(15歳)であり、少なからずこの事件によって世間から若者(中、高校生)に対してマイナス、危険なイメージ(否定)が付与されたような気がします。

そういった中で、私を含め当時の若者が世間に対して卑屈な態度、あきらめをどこかで抱いてしまったのかもしれない。(少なくとも私は当時そんな印象を受けました。)

一方、先述の「みんなぼっち」の若者(95年時点)では、他者とのコミュニケーションの煩わしさを回避するのが目的であり、そこには社会に対してのあきらめとかそういった感情は無いように思われます。

「みんなぼっち」以降、若者の取り巻く環境の転換点を迎え、それに伴って若者の社会に対する意識もどこか不安、あきらめ、孤独を帯びたものになっていったのかもしれません。

それでは、さらに10年経った現在の若者はどうなのか?

それは、本書の続編である岩田考他編『若者たちのコミュニケーションサバイバル―親密さのゆくえ』(2006)を読んでからまたアップしたいと思います。(なるべく早めに!!)

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こんなサイト見つけた。

「武蔵野市図書交流センターによる古書の販売」だって。

 

なんでも、武蔵野市図書館に寄贈された故人の蔵書の一部の書籍、雑誌をネット上で販売してくれるんだとか。(実際はファックス注文)

 

個人のコレクションということで、百科事典や文学全集などが多いようです。

 

でも、値段が非常に安いので一度見てみるのはどうでしょうか?

掘り出し物があるかもしれませんよ。

 

私の場合、気になるものがあったけど、買っても置く場所がどこにも無いので、買うのをあきらめ中~。

(でも、格安だしな~。どうしようかな~。)

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