発表。

おととい、ある研究会で、「原宿・代々木公園のストリート・パフォーマンス」について発表しましたが・・・

まあ、結果は言うまでもなく、十分なものとは言えなかったと思います。
発表の内容よりも、発表の仕方や伝え方に難がありました。

いろいろ原因はありましたが、1つだけ。
私の中で何回も話していて当たり前になっていたことは、発表を初めて聞く人にとっては未知のことであって、そのことをきちんと丁寧に説明すべきだったと思いました。
なんか基本的なこと(問題意識など)をしっかり伝えていたら、また伝わり方も違ったかもしれません。

下準備でここ数ヶ月忙しかったので、1ヶ月くらいは代々木公園について見たくも無かったのですが、
今日(2009/11/30)の東京新聞(朝刊)にデカデカと「竹の子族」についての特集記事がありました。
「ブティック竹の子」はまだあるのは知っていましたが、高円寺の「マジカルカフェ」というところで当時踊っていた人(40代くらい)がまだいるんだとか!!

神様は、私にまだ原宿・代々木公園のことについて書けというのですか!!
というのは冗談で、
おもしろそうなので、とりあえず落ち着いたら一度は覗きにいってみたいと思います。

最後に1つだけ。
今回の発表で何回か代々木公園に行きましたが、ストリート・パフォーマンスの数が以前より(2006年)も少なくなっているような。
以前は、バンドのギターがうるさい中で、公園で憩いのひと時を過ごす人がいる、といった
なんか変な空間な印象でした。

やはり、最近は静かになったような気がします。
今寒い時期だからということもありますが、公園管理の人が「代々木公園は利用者にとって快適で安全な憩いの空間として再生しつつある」(住吉泰男「東京オリンピック関連公園のその後―代々木公園」、『都市公園」2008年3月号)とコメントしてるように、ホームレスも、露店も、ストリート・パフォーマーも無くなっているのかもしれません。

(ちなみに、日曜日だけなのか、代々木公園の原宿口ではロックンローラー族も露店も時々います)

おやすみなさい。

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都会と田舎 「N.Nという人生」

よく死刑の基準ででてくる「永山基準」。
青年の猟奇的な殺人事件があると出てくる「永山則夫」。

1968年、4人の人を銃殺したという衝撃的な事件でしたが、
都会という場所に飲み込まれてしまった、一人のどこにでもいる若者だったような気がします。
事件の内容はネットで詳しく書いてあるので、そこは置いといて。

Photo 金の卵として青森県の貧しい家庭の永山にとって、東京は故郷の貧しい暮らしとは違う、きらびやかな夢の生活を期待させる場所でした。彼は、高級品(アメリカ製のタバコやファッション)を買って都会人を気取る一方で、都会の若者との間に違いを覚えました。
どんなに高級品を買っても、東京っ子のようにおしゃれにできない。
(当時は銀座のみゆき族などが流行っていた頃→)
彼は、そこに他人が自分に向ける軽蔑の視線を過剰なまでに感じ(「あいつ田舎者だ」)、田舎者として都会へ馴染めない苛立ちと無念さから事件を起こしたといえます。貧しい田舎にも、東京にも居場所が無かった孤独な若者。
見田宗介は、そんな永山が田舎から都会に上京したときの苦悩や孤独から、人の素性が知られていない都会にとって、人は他人から見た目で判断されることを指摘しました。

―都会のまなざしとは何か。具象的な表相性(話す言葉、容姿、持ち物)にしろ、あるいは「履歴書」に象徴される抽象的な表相性(肩書き、出身)しろ、(略)ひとりの人間の総体を規定、予測するまなざしである       
                  見田宗介『まなざしの地獄』より ( )は私が勝手に補足

就職活動は、社会人への第一歩なんて表現の仕方がありますが、
まさに履歴書(生まれや学歴)や見た目(きちんとしたリクルートスーツ)で判断されることは、見田が言う「都会のまなざし」でしょう。
私たちはそんな社会にうまく付き合っていくか、馴染めなくて苦悩し最終的に孤独になるか、どちらかです。

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「気分をかえて」(原曲:山崎ハコ、アイドル時代の香坂みゆきのカバーが個人的に好き。)

現代は、まさに「気分を晴らした者が勝ち」な社会です。
前向き、ポジティブ、プラス思考・・・ちょっとでも思い悩んでしまうと負けてしまいます。
地方出身が多い東京で、満員電車に揺られる多くの都会人がなんとか気分をかえようとしています。ある意味で都会での苦悩、孤独をなんとかごまかしているのかもしれません。

追記

先日、大学生に向けて、「都会と田舎」というテーマで授業をしました。
コミュニケーションの特徴が説明するのが主でしたが、
個人的には、都会にはじめて来た田舎者の戸惑いや馴染めない苦悩なんてのも感じ取ってもらいたかったですが・・・
私の説明が下手だったこともあり、伝わったか心配。

おやすみなさい。

まなざしの地獄 Book まなざしの地獄

著者:見田 宗介
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都会と田舎  「上京するということ」

東京に出たのは二十七歳の時。両親は駅のホームまで見送りに来て、「じゃあ行っておいで」という感じで。僕はもう田舎に帰るわけにはいかないし、両親も東京では暮らせない。住む場所が変わるということは、大きな別れなんですよね。
                                 東京新聞 2009/11/01(朝刊)

和歌山生まれの楳図かずおが、上京したときを振り返ってそのように語っていました。

もしくは、吉幾三の「俺らこんな村いやだ 俺ら東京さ行ぐだ」的な、田舎に強い劣等感をもって上京する場合もあるでしょう。
どちらにしても故郷との別れを感じずにはいられないとは思います。

来週に大学の講義(コミュニケーション論)で、「都会と田舎」の人間関係について話すことになり、ここ数日そのことについて考えることが多いです。

ところで、どうなのでしょうか?
今の大学生が上京するときに別れを感じるのか?
もしくは、埼玉、千葉などから東京の大学に通うために一人暮らしをした人は上京と言えるのか?

山形出身の私でさえ、新幹線ですぐに帰れるし、電話だってすぐにかけられるので、日ごろ故郷との別れを感じるわけではありません。
でも、実家から東京へ戻る新幹線の中では多少なりとも別れのようなもの(「次は正月まで帰れないのか・・・」など)は感じます。
後、もし東京で警察に捕まったり何か不測の事態が起きても、身元保証人がいないかと思うと、なんか妙に不安になるときもあります。(ま、そんなことは実際に起きないと思いますが・・・)

1時間そこらで実家に戻れる今の世の中、
楳図が語ったような「大きな別れ」は無いかもしれません。
田舎者にとっては、上京することであらためて田舎と都会の違いを認識します。
戦後の歌謡曲の多くが望郷をテーマにしていましたが、今の若い人向けの歌には望郷というテーマはまず見られません。
そもそも、都会/田舎という対立関係も無いかもしれません。

どのように学生に説明したらいいか、難しいものです。

A004   
「帰れないんだよ」(歌:ちあきなおみ)
望郷の歌というより、都会の中で落ちぶれて絶望している男の歌。
故郷へは錦を飾らないと帰れないし、都落ちのように帰ったとこで白い目で見られるに決まっている。そんな田舎に対する気持ちも見え隠れするような気がします。

「秋田へ帰る汽車賃があれば一月生きられる」
個人的に気持ちはよくわかる。とりあえず毎日を生きるのに必死というか。

ちなみに、私は今年のお盆は実家に帰省しませんでした。(ホントに電車賃がありませんでした。)

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秋。

いつのまにか、秋も中盤の10月に突入です。

近所にある栗の木(というか栗林。)に生った実が落ちていました。

200910041532000

しかし、こんなに大量に、しかもこんもり盛られていると風情もあったもんではないですけど。
(近くには、「栗拾い体験できます」という看板があるけど、やっている人をいまだ見たことはありません・・・)

おやすみなさい。

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河口湖の思い出 ② ~転覆コンビ誕生~

前回のつづき。(更新遅くなりました)

先生の自宅のログハウスに一泊。
次の日は、西湖をマウンテンバイクで一周&カヌー体験。

200908234
サイクリング中に撮影。
一周30分くらいでしょうかね。 200908236_3       

出ました!!本日のベストショット?→

カヌーはどうだったかというと・・・
いやいや、
私の体重の重みで危うく転覆するところでした。(Sさん、ごめんなさい)
といっても、横から入ってきた水でズボン、靴がびしょぬれに・・・

最後は温泉に入る予定だったのですが、
渋滞で到着が遅れるはずだったバスが予定通りに到着。
仕方なくそのまま帰宅。
ああ、残念。 

こうして今年の夏もいつの間にか終わっちゃいました。
チャンチャン。

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河口湖の思い出 ①

先週、ゼミW先生の河口湖にある自宅に1泊2日、
ゼミの人たち、出版社の方と大変楽しい時間を過ごしました。

200908231_2
東京から電車で約2時間。
ペンション村近くにあるログハウスが先生の自宅です。
今年はそんなにでは無いとはいっても蒸し暑かった東京に比べて、非常に過ごしやすい環境でした。
まさかエアコンなんていりません。

200908221_2
先生がギターを持って弾いたのは、けっこう珍しいのでは?
携帯電話のカメラで撮ったので、すべての写真がピンボケ。残念。
Wゼミですからもちろんロック中心。(尾崎も)
会話の中で、演歌は地方から上京してきた人たちが好む歌という話がありました。
「ああ上野駅」なんてわかりませんが、けっこう気持ちが分かる歌もありますけど・・・
そういった意味で私は田舎モノなのですかね。
(その話は改めて。)

200908223_2
「燃~えろよ、燃えろ~よ ほのおよ燃えろ
ひのこを巻きあげ 天までこがせ~♪」
なんか知らないけど、↑を歌わされました。

200908232
宴の後。。
Sさんが一日で飲んだビールの空き缶(500ml)です。

 

って、嘘です。
みんなで飲んだものでした。

足(3箇所ほど)を蚊にさされちゃいました。
つづく。

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ずんだ vs ぬた

A枝豆をすりつぶして、おもちなんかにかけてあるやつ。         普通、あれって何て言います?やっぱり「ずんだ」ですかね。

   

山形出身の私は、あれのことをずっと「ぬた」と言ってきました。

スーパーには「ぬた」と書かれた串団子が売っていたので、

あれは「ぬた」だとずっと思っていました。

(もしくは、「じんだん」なんて言葉もありましたけど、それはお土産品なんかにつくような言葉で、あくまで普段の生活の上では「ぬた」が一般的でした。)

 

いつからでしょうか、「ずんだ」なんて呼称が一般化したのは?

2000年ごろのことです。

仙台で冷凍の「ずんだもち」(萩の月で有名な菓匠三全って店)ってのがすごく人気があるんだって!!

という噂が私の家にも入ってきて、

仙台に行ったときに家にお土産に買ってきたものでした。

それから数年後、いつの間にか世の中が、「ぬた」から「ずんだ」へと呼称が変わってしまった印象を持っています。

 

と思っていたら、Wikipediaの「ずんだ」の項目に、ばっちり書いてありましたよ。

ずんだは、宮城、岩手方面の呼称で、

ぬた、じんだんは、山形、福島方面の呼称だそう。

「近年は、旧仙台藩領域での呼称「ずんだ」が仙台経済圏での訴求力によりデファクトスタンダード化し、旧仙台藩領域以外でも枝豆ペーストを利用したものは「ずんだ」と呼ばれるようになってきている。」

と、ばっちり書いてありました。

つまり、仙台発の「ずんだもち」が人気を博することで、世の中の呼び方自体も「ずんだ」が当たり前になっていったということです。

山形がもっと力を入れていれば、あれのことを「ぬた」と呼んでいたかもしれないかも??

いやいや、仙台の力には遠く及びませんよ、山形なんて。

しかも、「ぬた」なんて響きかっこ悪いし。

 

甘いものに限っていえば、いつの間にかお菓子をスイーツと呼ぶようになったことも似たような現象なんでしょうか。

いずれにしても、ずんだという言葉が当たり前の世の中で、いまさら「ぬた」なんて呼び方はできそうにありません。

(実家でも、もはやずんだと呼んでいます)

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春の写真たち。

「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

この時期になると、必ず見かける在原業平の和歌。

「桜の咲くのを待ちわび、散るのを惜しんでしまう。桜がなかったら春をのどかな気持ちをで過ごせるのに。」といった意味。

 

この季節になると桜や梅の花を、カメラや携帯でパシャパシャとっている人を多く見かけます。

さびしい冬の時にはそんなに撮らないのに、

なんと現金な人達でしょう。(私も含めて。)

 

ということで、私が撮った春の写真をアップしたいと思います。

P1010327 ←↓大学構内の写真。梅。(3月上旬に撮ったので、とっくに梅は散りました)

P1010335_2   

P1010337_2 ←↓大学に行くまでに咲いていた花。(この紅いのも梅でしょうか?)↓はたぶん梅。

P1010394_2  

  ここからはすべて目黒川沿いの桜です。(3/27に行った時にほぼ満開だったので、今頃は少しづつ散っていることでしょう)

P1010420

 P1010429  

P1010428  

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山形へ行きたい ~慈恩寺編、その2~

前回に引き続き、慈恩寺への旅の続編です。

 

慈恩寺というと、「慈恩寺舞楽」ってのが大変有名なのです。国指定民俗文化財として登録されているため、毎年、奉納されている様子が、テレビや新聞などあちらこちらで目にします。

Bugaku 5月5日に奉納されてる「慈恩寺舞楽」(こちらもお寺同様、長い歴史がある)

名前、舞楽は知っていても、お寺の事は意外と知らないということもあり、今回の旅に至ったのです。

 

200709141523000 境内の様子。

せっかくなので、中を拝見してみる。(拝観料500円)

見学者が私一人ということで、お坊さんと一対一でみっちりと説明を受ける。

慈恩寺の成立、本尊の話など、山形弁で饒舌に語ってくれました。

一番印象的だったのが、国の重要文化財である「十二神将」を直接見ることが出来たことでしょうか。

Jionnji1

躍動的な仏像が12体。

重要文化財なのに、けっこう気軽に見せてくれました。

よくよく見ると、目にはガラス球、口には歯までつけられていて、非常に丁寧に作られている。

こういう類のものは、博物館では、ガラスケースに入ってよく見えないけど、近くで見ると大変迫力がある。

 

最後に、興味深い話を聞く。

慈恩寺は、檀家がある普通のお寺のように個人からのお布施で成り立つものではなく、

国、藩などの支援を受けて成り立っていて、

国からの保護が受けられない今、お寺のお賽銭、拝観料(入場料は取られない)だけでは食べてはいけないとか。

慈恩寺のお坊さんの多くが、近くで農業や普通の仕事をしているのが、慈恩寺の現状の姿だそうで。

くしくも、私の中学生の時の同級生で、檀家のあるお寺の住職の後を次ぎ、外車を買ったという話を、その後聞くことになる。

200709141513000

慈恩寺を上る急な坂から見えた風景。

9月中なので、刈り入れ前の稲が一面に広がっていた。

~その後~

「慈恩寺そば」が美味しいということを聞き、名前だけを頼りに辺りをさまよう。

(実は、慈恩寺から歩いて20分以上かかる。)200709141434000   

200709141658000_2昔の民家を店として改造したとか。 

東京にあるような、わざと店内を古く見せる店とはやはり違い、煤けだって本当に古い。

200709141655000 板そば。(板の上に田舎そばがある。山形名物だというが、私はこの時初めて食べた)

田舎そばは、普通のそばと違って非常に太く、硬いが、やはり私はこういったそばが好き。(噛めば噛むほどそばの香りと甘さが広がって、そばつゆをつけない方が美味しいかもしれない)

 

と、長々と書いてしまった今回の旅。

ぜひ、電車で行くことをお勧めします。(2時間に1本ですけど)

このシリーズの次回の更新は、また山形に帰った1月に予定。

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山形へ行きたい ~慈恩寺編、その1~

大学での夏休みを利用して、9月に実家である山形市に帰省してきたのですが、

今まで18年間も山形に住んでいて、いかに山形周辺の地域に疎かったということを度々痛感していました。

(「山形の観光スポットは?」なんて聞かれても、私は知りませんよ。)

今回の帰省では、ガイドブックにあるような「山形の観光スポット」にあえて行ってみて、もう一度山形という場所を思い直そう、という壮大な目的を密かに立てていました。

もちろん一人旅です。

 

第1弾は、山形市から北にあるさくらんぼで有名(チェリーランドという観光スポットが有名)な寒河江(サガエ)市近くにある「慈恩寺」に行ってきました。Sagae_2

山形市から、2両編成の電車に乗り、一面田んぼと山に囲まれた風景(途中、最上川を渡る)に揺られること30分。「羽前高松駅」に到着。

そこから歩くこと、20分。 

200709141502000 ←これは、慈恩寺近くを流れる「寒河江川」(あの有名な最上川じゃないよ)昔(江戸時代)は多くの船が行き交い賑わっていたとか。

200709141515000_2奈良時代に聖武天皇によって開かれ、国の重要文化財となっている「慈恩寺」に到着。民家の中を抜けると突然うっそうした木々が、その奥に慈恩寺の本堂がある。

200709141522000 1618年に建てられた本堂。三重塔同様、焼失、再建(最上氏)を繰り返し、現在に至っている。茅葺き屋根で荘厳な雰囲気。

200709141526000こちらは本堂から少し歩くとある三重塔。 非常に歴史を感じる重厚な作りです。

200709141526001実は隣には民家が何軒もあります。

普通の住宅と、歴史のある建物が混在しているなんとも変な空間。

200709141518000こちらは、幽霊が出そうなため池。         昼なのにこの怖さ。絶対何か潜んでいます。

慈恩寺は、1000年以上まえから続く、東北地方の歴史あるお寺(国の繁栄を祈願する大きな寺)であり、その一体に小さな寺が多数あり、一大参拝スポットとして機能していたそうです。

いまは、その面影も無く、本堂周辺の建物のみを残す形になっています。

(お寺のお坊さんから聞いた話によると・・・)

以前は無数にあった寺が、明治時代の神仏分離によって急激に衰退し、

それが個人の住宅へと変化し、現在のように民家の中に突然由緒ある建物が存在することになったとのことです。

「慈恩寺」は、実に霊験あらたかな雰囲気もあれば、京都などのように極度に観光スポット化もされていない日常的な雰囲気も同時に感じられる場所でした。

パート2へ。

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